37. その絆はまるで蜘蛛の糸





 しんと澄んだ空気の中、時折聞こえてくる小さな溜息。それを耳にしながら手元の文庫本に目を落とし続ける。ほんの少し読み辛くなったのは、日が大分傾いたからだろう。室内は夕日色に染まり、夜の予兆とでも言うように、冷たい空気がゆるゆると忍び込んでくる。
 時刻は、文学部ならとうに帰宅する時間だろう。本来ならこの美術室も、無人の密室となっていなければならない。だが、人がいる。
 二人―――自分とが。

「今日は休みなんだ?」

 不意に無音に響く音。
 視線を上げれば、手にした白い塊に真剣な眼差しを向け、もう一方の手に持った細工棒で引っ掻いている。こちらを向いた気配は無く、作業を続けながら声を掛けたらしい。なんとも、今更な問いを。

「昨日が試合だった。だから今日は休みだ」
「ふーん。じゃあ帰って休んだらいいのに」
「一緒に帰るのは嫌になったか?」
「んー……べつに」

 生返事を返し、それ以降は何も言わない彼女に、小さく溜息をついた。また、手元に集中し始めたらしい。白い塊を―――粘土で細工物をしているは、いつもそうだ。耳栓をしているのではないかと疑うほど集中し、少し余裕が出ると話し掛け、しかしそれもすぐに終えて、また集中する。
 その集中力は賞賛に値するが、共にいるには少々つまらないのもまた、事実。
 まあ、それを見越しての暇潰しは常備しているが。

 そして例に違わず、また暇潰しに意識を傾ける事、十五分。
 日が、沈んだ。

、帰るぞ」

 日の温かさが退き、電灯を点けなければ目を悪くするほどに暗くなったのを期に文庫本を閉じた手塚は、それを鞄にしまいながらそう呼び掛けた。
 だが、返答は無い。
 視線だけで様子を窺えば、見えにくいだろうに、未だ作業に没頭するの姿。
 一応予想の範囲内だが、やはり、溜息は禁じえない。
 おもむろに立ち上がり、わざと足音を立てて近付く。数歩も無い距離はすぐに埋まり、白い粘土の塊に真剣な眼差しを向け続けるのを確認して、手を伸ばした。
 邪魔をしようものなら、容赦の無い鉄拳が寸分狂わず鳩尾に叩き込まれる―――とは、風の噂で聞いた事だ。
 しかし、作業を続けるには光源の乏しい室内は暗過ぎ、また文化部の平均帰宅時間をとうに過ぎた頃合い。美術室の鍵が戻っていないと、教師、もしくは用務員が様子を見に来るだろう。
 一生懸命になっているのに悪いとは思うが、時間切れだ。
 伸ばした手は、静かにの細工棒を取り上げた。

「……あと五分お願いします」
「お前の五分は、実際には十五分だという事を自覚しているか?」
「粘土はスピード勝負なの。速くしないと乾燥するのよ? 続きは明日なんてできないの」

 細工棒を取り上げられたままの格好で、は淡々と主張した。
 正直、あまり面白い状況ではない。
 意識はこちらに向いていても、視線は絡まず、白い粘土の塊に注がれたままなのだ。
 彼女の性格、そして状況。それらを考えると仕方の無い事だが、彼女の中で自分はその白い粘土の次かと思うと、面白くないと思うのはごく自然な感情で。



 少し語調を強めて呼べば、目に見えて肩を落とす。顔色一つ変えずに受け止めてその後の動向を見守れば、ゆっくりと面(おもて)を上げる。

 ようやく絡む、視線。

 だが喜ぶのも、安堵するのも、まだ早い。
 さてどう対応するか、考えている内に、にっこりと笑う風月が目に映る。

「お願い」

 薄闇の中、むやみやたらに可愛く、これまでの数えに間違いが無ければ三度目のそれは。
 対応を模索していた手塚から、深い溜息を引き出した。

「……五分だ」

 取り上げた細工棒を返せば、とびきりの笑顔と感謝の言葉。残念ながら、薄闇に遮られて、はっきりとは見えなかったけれど。

「すぐ終わるように頑張るから! あ、電気点けてくれる?」

 言われずとも点ける気だったが、それは胸に留めて短い相槌を打つ。くるりと踵を返し、電灯のスイッチを目指しながら、いつか捨てられはしないだろうかと、今の関係を憂えた。
 小気味の良い音と共に灯り始めた電灯。
 それが消えたのは、丁度五分後だった。